アメリカの今を2002年に予言していた内田樹
内田樹が『期間限定の思想』(晶文社)の中の『「脱欧入亜」する日本』(2002年6月)において、こんなことを書いていました。
たしかに、「私はすぐれた人間である。それを認めて、私をもっと尊敬しろ」というようなことを言い立てる人間ばかりでは、世の中住みにくくて困る。
お金があってええしのぼんぼんで権力があって情報通でアメリカでMBAとってきて英語がぺらぺらで外資系ITヴェンチャーのヤングエグゼクティブで・・・・・・というような人間が汎通的な「理想像」とされるのは、社会全体にとってはあまり気分のよいことではない。
だって、そんな条件を達成できるのは一握りの人間だけだからだ。残る圧倒的多数は、条件を満たせずに、フラストレーションを抱え込むことになる。
集団的なフラストレーションを癒すための社会的コストは高くつく。場合によってはものすごく高くつく。
アメリカがよい例である。
アメリカ社会の「人間の価値は年収で判定される」という価値観のせいで、どれほどの成員たちの心が痛めつけられているか。傷つけられた人々が切望する「癒し」のために、どれほどの社会的リソースが蕩尽されているか。
この社会のバランスシートはいまかろうじて「黒字」になっているが、「赤字」に転じるのは私の見るところもはや時間の問題である。だが、このことに気づいている人間は少ない。
これ、2016年11月に、14年と5ヶ月の時を経て当たりましたね。
ただ、イギリスの「ブレグジット」と同じ「負け犬の逆転劇」という見方もあるので、民主国家で起き始めている、支配者層に対する異議申し立てのひとつでしかないのかも知れません。
両方とも正解なのかな。。