東京百舌

二枚舌ならぬ百枚舌です。適当なこと言います。人が言わないことを言うのが努力目標です。言いっ放しです。あしからず。

もしも、子どもに千差万別な成長曲線があるのであれば

飛び級と積極的留年を合わせた学校運営が必要なのでは?
それは、科目ごとが理想だと思われる。

今のIT社会であれば、キメの細かい対応ができるのではないだろうか?
というよりも、外国では、以前より、飛び級や積極的留年はあったりするので、それは社会の了解が得られるかどうかの問題だと言える。

理解が足りないまま進級しても、それは時間の無駄になる。
成長曲線にも個人差があるだろう。
ならば、飛び級と積極的留年を合わせた学校運営が必要なのではないだろうか?

 

通訳者であり、エッセイストであり、小説家でもある米原万里さんの小中学校時代のプラハ生活を元にした小説では、
親が、大学教授(たしかそうだったような・・)の息子が一年留年していて、一年上級生の同い年の女の子と付き合っているというエピソードが書かれていて、留年していることへのなんの後ろめたさも無いことに驚いたことがある。
その米原さんが中学で日本に戻ってきたときに、母親が学校に行って留年したいと相談したところ、学校側が「それは劣等感につながるから」と断ってきたという話がある。
それは、今もたぶん変わらない。

 

それでも、飛び級と積極的留年を合わせることは学習の理想だと思う。
体育などは体格による落ちこぼれや習得機会の損失を補うことにもなる。


例えば、「数学は飛び級で、でも、背丈は低いし、まだ体格ができていないから、体育は留年で」とか
「勢いがある今、英語に力を入れたいところですが、それをすると、国語と芸術の遅れを取り戻す時間が足りなくなります。1年留年だけでは取り返せないかも知れません。どうされますか?」とか
「理科の理解が足りなくて、このまま進んでも落ちこぼれます。留年して、来年は理科に重点を置きませんか? 国語のほうは、飛び級して古典を始めても負担は無いと思います」とか


時間が有限であるかぎり、子どもの時点である程度の得意分野の選択の必要が出てくる可能性がある。そして選択の正否は、その子どもが大人になったときの社会が決めるのだろうから、ある種の賭けとなる。

 

中学生棋士藤井聡太さんが、将棋のみか高校進学かで悩んだ話に似ていて、
そういった、人生の選択が、どの子どもにも降りかかる社会になるのかも知れない。