東京百舌

二枚舌ならぬ百枚舌です。適当なこと言います。人が言わないことを言うのが努力目標です。言いっ放しです。あしからず。

プログラミング教育は失敗に向かう

プログラミング教育は失敗するのではないだろうか?

プログラミング教育に関しては、
「プログラミング教育が成功するのは、野球のイチローや、ユーチューバーのような、憧れになる人が必要だ
という話がある。
それが全てなのかも知れない。

 

プログラミング教育失敗に関しては、「英語嫌いを作る方法」(内田樹)という文章を思い出す。
この文章には、「プログラミング嫌いを作る方法」にも応用できる話が書いてある。

たぶん現在、日本の大学入学生の半数近くは中学二年程度の文法知識さえ持っていない。
これは個別の英語教師の教育力の問題ではなく、現在の英語教育が構造的に「英語嫌い」を作り出していると考える方が合理的である。

私はこれまでも繰り返し、学びにおいては「努力と報酬の相関」を示してはならないと書いてきた。
これだけ努力すると、これだけ「いいこと」があるよというふうに事前に努力と報酬の相関を開示してしまうと、子どもたちの学びへの動機づけは歴然と損なわれる。
学びというのは、「謎」によって喚起されるものだからだ。
自分の手持ちの度量衡では、その意味も有用性も考量しがたい「知」への欲望が学びを起動させる。
中学で教えるすべての教科の中で、英語は唯一例外的に「その意味も有用性も、中学生にもわかるように開示されている」教科である。
そのような教科の学習意欲がきわだって低い。
これを「おかしい」と思う人はいなかったのだろうか。
ほとんどの子どもたちは中学生二三年の段階で、英語学習への意欲を、取り返しのつかないほどに深く損なわれている。
なぜ、その理由を誰も問わないままにすませてきたのか。
英語力が低下していると聴いた政治家や教育評論家や役人は、「では英語ができる人間への報酬をさらに増額し、英語ができない人間へのペナルティをさらに過酷なものにしよう」という「carrot and stick」戦略の強化しか思いつかなかった。
それによって子どもたちの英語嫌いはさらに亢進した。
日本の子どもたちの英語力はそのようにして確実に低下してきたのである。

それを学ぶことによって、幼児的なものの見方から抜け出して、風通しのよい、ひろびろとした場所に出られるという期待が人をして学びへと誘うのである。

もしも、これが正しいのであれば、
プログラミングの学びにおいて「努力と報酬の相関」を示すのは悪手となる。

同時に、英語学習の低年齢化も、「努力と報酬の相関」を示すかぎり、悪手となる。

また、リーディングスキルの問題も「努力と報酬の相関」を示すかぎり、悪手となるのではないか?

学習には、
「憧れになる人」が現れたり、
「風通しのよい、ひろびろとした場所に出られるという期待」
「自分の手持ちの度量衡では、その意味も有用性も考量しがたい「知」への欲望」
が必要である。

孔子も「これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず」と言っている。

学習は、それを好きな人や、楽しむ人が伸びるものであって、
「努力と報酬の相関」は学習の原動力とはならない。むしろブレーキにすらなる。

こうやってみると「努力と報酬の相関」や「必要性」という言葉は、「嫌々ながら」という言葉を、前向きな言葉として言い直してみたものなのかも知れない。


英語に関してはこういった指摘もある。

gendai.ismedia.jp

タテマエとして、つまり他人事としては「話せたほうがいいとおもう」となる。でも、いま必要としていない大人に、近いうちに必ず話せるようになりなさい、と命じたところで、いや私はいいよ、と答える。

〝国際派〟の人たちだけの危機感であり

 「若者はみな英語を話せるようになってほしい」という願望の押しつけが開始される。

 

これを読んでいると、たぶん今は、
「若者はみな英語を話せるようになってほしい」
に加え、
「若者はみなプログラミングをできるようになってほしい」
という願望の押しつけが始まろうとしているのであろう。

学習とは、「自分ごと」にできるかどうかである。他人事として「努力と報酬の相関」を語り、それをかざして他人に学習することを求めている限り、その思惑は無駄に終わってしまうだろう。

学習において、「努力と報酬の相関」を言うことによる負の効果を、
誰か、心理実験でもして実証してくれはしないだろうか。

放っておくと、その正しさを測る壮大な実験が日本において始まってしまう。