東京百舌

二枚舌ならぬ百枚舌です。適当なこと言います。人が言わないことを言うのが努力目標です。言いっ放しです。あしからず。

“これができれば、あれもできると”いうことでは無い、むしろ逆・・・という話

『脳は新しいタスクを学ぶ時にでも既知の習慣に固執する場合があることが判明』

gigazine.net

「脳は新しいタスクを学ぶ時にでも既知の習慣に固執する場合があることが判明」したそうな。

研究のリーダーの1人であるカーネギーメロン大学のバイオメディカルエンジニアで神経科学者のバイロン・ユー氏は、「スカッシュをするたびに、私は自分がテニスプレーヤーであることを思い知らされる」と語ります。ユー氏は何年にもわたるテニスの経験がありますが、ことスカッシュをプレイする時にはその経験があだとなり、スカッシュ特有のプレイスタイルになじむことができないとのこと。スカッシュではテニスよりも短いラケットを使うため、テニスとは異なるより速いショットが要求されますが、ユー氏はついテニス流のプレイをしてしまうとのことで、脳がすでに知っていることを忘れようとしないことがプレイに現れてしまっているそうです。

ユー氏は、研究の同僚たちと一緒に学習中の脳の活動を観察することで、同様の可塑性の欠如の証拠を神経レベルで目にしてきました。その発見とチームの関連する研究からは、いくつかの事柄は他のものよりも学ぶことが難しい理由が浮き彫りになってきています。

 

こんな話がある。

外国語を覚えるときに、構造が近い言語は、習い始めは楽だけども、上達するのは難しく、
構造が遠い言語は、習い始めで凄く苦労するのだけども、最後まであきらめずに習うことができたならば、専門家にだってなれる。

 

・・・というか、始めが楽だった人達は、途中からどんどん脱落していく。

 

関西人が、東京に出てきて、いつまでたっても、発音が関東にならないのも、同じ理由だと思われる。

引用の「テニスとスカッシュ」と似た話では、
将棋の羽生さんの、チェスの強さが将棋ほどでは無いのも、同じ理由からだと思われる。


「○○ができるのだったら、●●もできるでしょう。どちらも似たようなもんでしょう。」
といった要望がいかに的外れかが分かる話である。

スカッシュの大会を数年後に予定しているとして、
テニスの強者をもってくれば簡単に解決するわけも無いと言う話であり、

チェスの大会を数年後に予定しているとして、
将棋の強者をもってくれば簡単に解決するわけも無いと言う話である。


「これができれば、似たようなあれもできるということでは無い」
それどころか、
「なんのとっかかりも無い人のほうが上達し熟達する」
ということにもなるので、

組織内で新しいことに取り組む場合は、そこのところを考慮して、「急がば回れ」で時間をかけて取り組んだほうが良いということになる。

聞いていますか?権限を持った方々。

 

リーディングスキルテストで、教育方法を確認できそう

リーディングスキルテストが一般に開放されるようだ。

こうなると、
学力強化を歌う学習塾や個人塾は、入塾したての生徒にRSTを受けさせて、
後日、指導の効果が出たと思ったときに、再度RSTを受けさせれば、
その指導が本当に効果があるのかが確認できそうである。

リーディングスキルテストが今後話題になるたびに、効果的な学習法の議論が出てくるものと思われる。

全国には、「我が教育法こそ最強なり!」と旗を掲げているところがいくつもあると思う。

それらが、裏付けにリーディングスキルテストを使い出せば、
数年で淘汰が行なわれるのではないだろうか?

また、リーディングスキルテストは個人受験も考えているそうなので、
教育熱心な親が、
今、通っている学習塾の指導効果を計るために使い出す可能性もある。

すると、口コミで、
リーディングスキルが向上する学習塾はここだ!」
「あの塾は、お金がかかる割に子供のリーディングスキルが伸びない」
という噂が広がるのではないか?

受検のご案内
https://www.s4e.jp/guidance
を見てみると、

スタンダードコースで1,500円である。
個人受験が見当されているプレミアムコースで5,000円である。

噂は、リーディングスキルテストがニュースになるたびに拡散するだろう。
塾だと都合が良いように、テスト結果を加工する可能性がある。
なので、個人発の口コミが、信用されるだろうと予想している。

そして、そのうち、『リーディングスキルを向上させた母親の教育法』という本が出版されるのか・・・。それは嫌だな。

他にも、『リーディングスキルを劇的に向上させた僕の勉強法』というブログページも出現しそう・・・。それも嫌だな。

と言いながら、私のリーディングスキルは低いだろうから、自分で試してブログに書くのは面白そうではある。

なぜ、痛み止めはドーピングではないのだろう?

オリンピックで、
羽生選手が痛み止めを打って頑張ったって話で思ったのだけど、
なぜ、痛み止めはドーピングではないのだろう?

一般的に「薬を使って競技力を高めること」が「ドーピング」の定義らしい。

薬以外にも、自分の血液を冷凍保存しておき、試合の直前に再び体内に入れて、酸素運搬能力を高める「血液ドーピング」や、「遺伝子ドーピング」といったものもあるらしい。

で、なんだけども、
「痛み止め」は競技力を高めるものなのではないだろうか?

内村航平選手はリオ五輪に出発する会見でドーピングについての見解を聞かれ、「興奮剤でつり輪の技術が上がることはない」と語っていたそうだ。

ならば「痛み止め」は?

技術に関係するのでは?
技術に関係無ければ原則禁止でもいいのでは?

ラソンでも、一部の痛み止めの薬は、ドーピングでは無いらしい。

競技によって違いがある?

こうなると、針は?灸は?電気刺激は?となってくるのだけども、それはどうなのだろうか?


選手の体の安全を第一に考えるなら、使用後の安全性が確認できるのなら「血液ドーピング」は許されても良いように思う。
極寒の地におけるコートの着用許可のようなものである。

でも、「痛み止め」は体の酷使を前提としているから禁止にしたほうが、選手の体を守れるのではないだろうか。

ただ本当に選手の体の安全を第一に考えるなら、
大会運営も考える必要がある。
ある限度を超えた環境(吹雪や酷暑、強風)になったときには、試合の開催を遅らせるだとか、延期するだとか、中止するだとか、
そういった柔軟な大会運営が必要になってくるはず。

http://npb.jp/anti-doping/chapter1.html
http://number.bunshun.jp/articles/-/826118?page=3

企業がリーディングスキルテストを使い始めるかも

リーディングスキルテストが2018年8月から一般受験できるようになる。
そして、企業が使い始める可能性がある。

個人受験も検討中だそうな。五千円だそうな。


こうなると、事前に個人受験をする大学生が増える可能性がある。

そして、人生でたった一度の大学卒業時の就職チャンスをものにすべく、
「答えを丸暗記する暴挙」に出る大学生も出てくるのではないだろうか?

この場合テスト結果に「とても早い判断をしています。一般人よりも文章を理解するスピードが早く、かつ、文章を読み返すことなく高い精度で答えを見つけています」「極めて有能。上位5パーセント」などと、あえて持ち上げたことを書いておいたほうがよいのではないだろうか。
そのほうが目立って、逆に不正をした人物を特定しやすいのではないだろうか。

それと、

企業がリーディングスキルテストを使い始めて数年経てば、
業務成績との相関も見えてくるのではないだろうか?

「○○業務の募集には、リーディングスキルは関係無いよね」
リーディングスキルは、□□の能力を持ち合わせないと、”宝の持ち腐れ”だよね」
なんて言われるようになるかも知れない。

また、勝手な要望としては、
企業はリーディングスキルの上位者から採用したいと思うだろうから、
できれば、できればであるが、テスト採点者のほうで、おおよその最低ラインを提示してはもらえないだろうか。

このままでは、どの企業も上位者から採用しようとするので、中にはオーバースペックな事態も起こると思われる。


つまり、例えるのなら、
「自動車を200キロで乗り回す能力もいいけど、うちは、時速40キロで運転できれば問題ないよ」というように、
「味覚や嗅覚が鋭いのはいいけど、うちは、ファーストフードだからね」というように、(この例えで伝わりますか?)
どうしても高いリーディングスキルが必要な職種と、そこそこのリーディングスキルで足りる職種があるのに、
低いリーディングスキルで足りる職場が、高いリーディングスキルの人をとりあえず採用することで起こる不幸があるのではないかと危惧している。

なんだか、どこの企業も良く分かってないから、とりあえず、上位者から採用しようとして、ミスマッチが起こる可能性を心配している。

だから、「このレベル以上だと問題ありません」だとか「この業種にはこのあたりで十分です」のようなマップが提示されていたほうが良いように思う。

そんなことを思いながら、気にかけている昨今である。

リーディングスキルが無いとは、こういうこと・・・たぶん

リーディングスキルテストで文章が読み取れない子供の話が出ているが、
いまひとつ、リーディングスキルが無い状態というものの実感がわかない人もいるのではないだろうか?


これがドイツ語ならば、多少習ってはいても、リーディングスキルが無い人も多いと思う。

そういった体験を通して見れば、「リーディングスキルが無いとはこういうことなのだろう」と想像できるのではないか?


新井素子「ドイツ語の授業をさぼると机がおしよせてくるっていう怖い話|基礎ドイツ語 85.5」より

 昔、四年間程、ドイツ文学科という処におりました。つっても、まあ、おそろしい程怠惰で何もしない学生だったんで、まったくドイツ語、書けも読めも、ましてや話せもしませんが。

 でも、一応学生だったので(略)当時のノートが残っているんです。

 これがね、当時もそうだったんだけど、今読み返しても、おかしい。笑える。

 たとえば。
 『彼らが彼を開けた時、くさったレモンの匂いが彼らの中へおしよせてきた。向きあった大きな木の上方の葉は動かず、にわとり達は眠っていた。向きあった壁の間の、木の枝の上方が輝いている平原では、小さな貨物列車がオランダの方へ走っていった。』

「あの、新井さん、常識的に考えて、人間というのは開くものですか?」
「……常識的に考えて、開くものではないと思います」
「じゃ何だってあなた、開けちゃったんですか?」
「開けるつもりはなかったんですが……そう書いてあったので……」
「それから、木の枝が輝く平原っていうのは、何ですか?」
「私もそれが知りたいです」

 この先生の情業では、もっとひどいのやったこともあるんですよね。それも、テストで。
 『老人は、婦人とお茶を飲みたいと思っていた。すると、家の裏手の川から、書きもの机の大群がおしよせてきた。書きもの机に流されながら、老人は考えた。あの椅子は、妻には小さすぎるのではないかと』

 

文章が読み取れていないっていうのは、こういうとなんでしょうね・・・たぶん

 

 

プログラミング教育は失敗に向かう

プログラミング教育は失敗するのではないだろうか?

プログラミング教育に関しては、
「プログラミング教育が成功するのは、野球のイチローや、ユーチューバーのような、憧れになる人が必要だ
という話がある。
それが全てなのかも知れない。

 

プログラミング教育失敗に関しては、「英語嫌いを作る方法」(内田樹)という文章を思い出す。
この文章には、「プログラミング嫌いを作る方法」にも応用できる話が書いてある。

たぶん現在、日本の大学入学生の半数近くは中学二年程度の文法知識さえ持っていない。
これは個別の英語教師の教育力の問題ではなく、現在の英語教育が構造的に「英語嫌い」を作り出していると考える方が合理的である。

私はこれまでも繰り返し、学びにおいては「努力と報酬の相関」を示してはならないと書いてきた。
これだけ努力すると、これだけ「いいこと」があるよというふうに事前に努力と報酬の相関を開示してしまうと、子どもたちの学びへの動機づけは歴然と損なわれる。
学びというのは、「謎」によって喚起されるものだからだ。
自分の手持ちの度量衡では、その意味も有用性も考量しがたい「知」への欲望が学びを起動させる。
中学で教えるすべての教科の中で、英語は唯一例外的に「その意味も有用性も、中学生にもわかるように開示されている」教科である。
そのような教科の学習意欲がきわだって低い。
これを「おかしい」と思う人はいなかったのだろうか。
ほとんどの子どもたちは中学生二三年の段階で、英語学習への意欲を、取り返しのつかないほどに深く損なわれている。
なぜ、その理由を誰も問わないままにすませてきたのか。
英語力が低下していると聴いた政治家や教育評論家や役人は、「では英語ができる人間への報酬をさらに増額し、英語ができない人間へのペナルティをさらに過酷なものにしよう」という「carrot and stick」戦略の強化しか思いつかなかった。
それによって子どもたちの英語嫌いはさらに亢進した。
日本の子どもたちの英語力はそのようにして確実に低下してきたのである。

それを学ぶことによって、幼児的なものの見方から抜け出して、風通しのよい、ひろびろとした場所に出られるという期待が人をして学びへと誘うのである。

もしも、これが正しいのであれば、
プログラミングの学びにおいて「努力と報酬の相関」を示すのは悪手となる。

同時に、英語学習の低年齢化も、「努力と報酬の相関」を示すかぎり、悪手となる。

また、リーディングスキルの問題も「努力と報酬の相関」を示すかぎり、悪手となるのではないか?

学習には、
「憧れになる人」が現れたり、
「風通しのよい、ひろびろとした場所に出られるという期待」
「自分の手持ちの度量衡では、その意味も有用性も考量しがたい「知」への欲望」
が必要である。

孔子も「これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず」と言っている。

学習は、それを好きな人や、楽しむ人が伸びるものであって、
「努力と報酬の相関」は学習の原動力とはならない。むしろブレーキにすらなる。

こうやってみると「努力と報酬の相関」や「必要性」という言葉は、「嫌々ながら」という言葉を、前向きな言葉として言い直してみたものなのかも知れない。


英語に関してはこういった指摘もある。

gendai.ismedia.jp

タテマエとして、つまり他人事としては「話せたほうがいいとおもう」となる。でも、いま必要としていない大人に、近いうちに必ず話せるようになりなさい、と命じたところで、いや私はいいよ、と答える。

〝国際派〟の人たちだけの危機感であり

 「若者はみな英語を話せるようになってほしい」という願望の押しつけが開始される。

 

これを読んでいると、たぶん今は、
「若者はみな英語を話せるようになってほしい」
に加え、
「若者はみなプログラミングをできるようになってほしい」
という願望の押しつけが始まろうとしているのであろう。

学習とは、「自分ごと」にできるかどうかである。他人事として「努力と報酬の相関」を語り、それをかざして他人に学習することを求めている限り、その思惑は無駄に終わってしまうだろう。

学習において、「努力と報酬の相関」を言うことによる負の効果を、
誰か、心理実験でもして実証してくれはしないだろうか。

放っておくと、その正しさを測る壮大な実験が日本において始まってしまう。